今更ながら『冒険の書』を読んだ¶
読んだ本¶
孫泰蔵さんの『冒険の書 AI時代のアンラーニング』を読んだ。
学校とは何か。なぜ勉強するのか。好きなことだけしていてはいけないのか。 教育思想や歴史をたどりながら、そういう問いを考えていく本だった。
読み物としては面白かった。問いの立て方も良いし、学校や能力主義を当たり前のものとして扱わない姿勢もわかる。
ただ、読みながらずっと違和感もあった。特に学校教育への批判には、最後まで納得しきれなかった。
学校教育への違和感¶
本書では、学校が秩序や服従を作る装置として語られている。その指摘自体はわからなくもない。
読書メモには、次のように残していた。
学校は今ある秩序を支えるために、みずから服従するようにできている いつからどんな意図か 効率的な教育を行うために、階層分けをし、相互監視させて教育を行うようにした
学校を神格化しすぎた面はある。「学校に行くのが当然」「基礎は大事」「勉強しなさい」という言葉で、いろいろなものを考えずに済ませてきたところはある。
ただ、それでも学校教育をそこまで否定的には見られなかった。
子どもは真っ白で、まだ何も知らない。そして人間は怠惰だと思っている。特に今は娯楽が多い。そんな中で、学びになるものをどれだけ子どもに渡せるのか。
本書を読んでいて、タブラ・ラサの話も引っかかった。子どもを白い板や白いキャンバスのように見る考え方である。これ自体がどこまで正しいのかはわからない。
ただ、子どもは最初に触れるものから大きく影響を受ける、という感覚はある。『ミステリと言う勿れ』にも、子どもはコンクリのようなもので、落とされると変な形がつく、というような話があった気がする。正確な言い回しは確認していないが、たぶん根っこにある感覚は近い。
だからこそ、最初に何を渡すかはかなり重い。自由に任せるだけでよいとは思えなかった。
自由に学べばいいと言うのは簡単だ。でも、それを支えられる大人がどれだけいるのか。本当にそんな教育をできる人が、どれだけいるのか。
自分が子どものころに「好きに学べ」と言われて、ちゃんと学べたとは思えない。面倒だったけれど、言われたからやった。やらされたから身についたものもある。
ここを無視して、学校教育を古いものとして片付けるのは、少し乱暴に感じた。
基礎はやっぱり大事だと思う¶
本書には、基礎という考え方が学びを型にはめ、つまらなくしてしまうという話が出てくる。ここも、読みながら引っかかったところだった。
基礎という考え方は、学びを型にはめてつまらなくしたり、嫌いにしたり。 でも基礎は大事という言葉で思考停止に 基礎にとらわれなくてよくて自由でいい むしろ中上級者向けに基礎がある
これは、最近のAIまわりの学び方を見ていると少しわかる。全部を順番に学んでから始めるより、まず作ってみて、必要なところを調べるほうが速い。目的が先にあり、足りないところを後から学ぶ。そういう学び方はたしかにある。
大学以降の学びも、それに近かった。高校までは、決められた範囲を学んだうえでテストに出る。大学に入ると、目的のために必要なことを学ぶようになる。足りないところ、気になったところを自分で調べる。全部を網羅してから進んでいたら追いつかない。
たぶん本書が言いたい学び方も、そちらに近いのだと思う。
でも、それができるのは基礎があるからではないか。
四則演算はやっぱり大事だと思う。文章を読めることも、調べ方を知っていることも、面倒なことを続ける経験も大事だと思う。
高校生のころ、今の勉強は筋トレだと聞いたことがある。たぶんそうだったのだと思う。教科の内容そのものだけではなく、勉強の仕方を勉強していた。わからないものを、時間をかけてわかるようにする経験をしていた。
基礎があるから、その先で目的に応じて学べる。型を知っているから、必要に応じて型を崩せる。
序破急という言葉があるように、まず型を知ることは大切だと思う。型を知らないまま型を破ることはできない。
学力を保険として見ている¶
自分は会社員ではあるが、かなり個人事業主的に生きている感覚がある。
そういう働き方をしていると、高校や大学の看板のようなものが、まだ後ろにあると感じることがある。それは単なる学歴信仰ではなく、「この人はこれくらいのことはやれるはず」という保険に近い。
もちろん、能力主義や学歴主義がすべて正しいとは思わない。でも、それが現実に信用の足場として働く場面もある。だから簡単には否定できない。
子どもに対しても、たぶん自分は同じことを考える。
天才ではないなら、誰でもやれば身につくはずの学力は持っておいてほしい。良い学校に行ってほしいというより、やれば身につくという経験をしてほしい。わからないものに向き合い、面倒なことを続け、少しずつできるようになる。その経験は、人生のかなり後まで効くと思っている。
ただ、ここに自分の古さもある。
子どもには学力を持っていてほしい。基礎を身につけてほしい。競争に耐えられる力を持っていてほしい。
そう考える自分は、たぶん本書の中で批判される親にかなり近い。その自覚はある。
今のままだと、自分は子どもに大変な学生時代を過ごさせると思う。子どものためと言いながら、不安を渡してしまう気がする。
ここがかなり引っかかっている。
これはポジショントークではないか¶
読みながらずっと、これは著者のポジショントークではないかという思いもあった。
学校や学歴や既存の評価制度から自由になれる人は、そもそもそこから外れても生きていけるだけの資本を持っている人ではないか。自由に学べる環境があり、失敗しても戻れる場所があり、人脈や信用がある人だから言えることだ。
「好きなことを探究する」 「世界は自ら変えられる」
言葉としては魅力的だ。本当にそうであってほしいとも思う。
でも、それを言える人と、そう言われても学力や学歴にしがみつくしかない人との間には距離がある。
学校は、古い制度かもしれない。秩序や服従を作る場所でもあるのかもしれない。
けれど同時に、特別な才能や資本がない人にとって、最低限の道具を受け取る場所でもある。読み書き、計算、集団の中でやっていく経験、面倒なことをやる経験。完全ではないにしても、学校はその入口になってきた。
だから、学校教育を批判する言葉には乗り切れなかった。その言葉が間違っているというより、自分にはまだ遠い言葉に聞こえた。
大人の学びとしてならわかる¶
一方で、本書に出てくる学び方そのものにはかなり同意している。
特に、このあたりはかなりわかる。
答えようとするな。むしろ問え。
論理的に、簡単に答えが出ているものはすでに大部分が解決している。 本質的に問い続け、深めるうちに、問題が解決することがある。 イノベーションをもたらすことで世界をよくし、未来の世代にバトンを渡す。 そのために私たちは学ぶのだ。
大人になって、自分の頭で考える。問いを持つ。世界をよくするために人が集まり、学び合う。
そういうコミュニティは良いと思う。
そのためには、たぶんセレンディピティも必要になる。メモには「素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見したりすること」と書いていた。視野を広げるには、多くの人に会う必要がある。
自分がイベントをやっている理由も、少しここに近いのかもしれない。あらかじめ答えが決まっている場ではなく、人に会って、話して、思っていなかったものに引っかかる。そういう偶然がないと、自分の問いも更新されない。
ただ、それは義務教育の代わりになるものではないのではないか。学生が通う学校というより、社会に出たあとに必要になる学びに近い。
義務教育を受け、基礎を身につけ、社会に出る。仕事をして、お金や組織や制度の制約を知る。そこで初めて、自分は何を問いたいのか、何を変えたいのかが見えてくる部分がある。
そう考えると、本書の学びは社会人ドクターや、社会人向けの学び直しコミュニティに近いものとして読むほうがしっくりくる。
現実にぶつかった大人が、もう一度学び直す。これまで身につけてきた常識や型を、今の自分の問題意識に合わせて問い直す。
そういう意味では、本書の言うアンラーニングはかなりわかる。
アンラーニングは基礎の否定ではない¶
最初は、アンラーニングという言葉をうまく受け取れなかった。
メモでは、ひとまず本書の言葉をこう受け取っていた。
「アンラーニング」 これまでに学んだ常識やこれまでに出来上がった思い込みなどを捨て去り、その上で新しく全てを学び直す姿勢。
今は学ぶことが多すぎる。新しい技術も、仕事の進め方も、社会の変化もある。アンラーニングどころではなく、勉強の毎日だ。
何を手放したいのかと聞かれても、まだ答えは出ていない。凝り固まっている気はするので、あえて言うなら全部かもしれない。
ただ、少し考えた結果、アンラーニングは基礎を捨てることではないのだと思った。
自分にとってのアンラーニングは、これまで学んできたものを否定することではない。これまで学んできたものを、絶対視しないようにすることだと思う。
学校で身につけた基礎や型は、今の自分を支えている。だから簡単には否定できない。
でも、それだけで足りるとも思っていない。基礎があるからこそ、その先で問いを持てる。型を知っているからこそ、必要に応じて崩せる。
そう考えると、アンラーニングは基礎教育の否定ではない。むしろ、基礎教育を受けた大人が次の段階に進むための学び方なのだと思う。
まだ燻っている¶
『冒険の書』を読んで、考えがきれいに変わったわけではない。
むしろ、変わりきれなかった。
学校教育への批判には納得しきれない。基礎は大事だと思う。学力や看板を保険として見ている自分もいる。著者の言葉をポジショントークではないかと疑っている自分もいる。
一方で、大人が自分の頭で考え、問いを持ち、学び直すことにはかなり同意している。「世界は自ら変えられる」という言葉にも、なぜか結構反応している。
メモにも、ここはそのまま残っている。
もし明日死ぬとして、残す言葉は、 「世界は自ら変えられる」
メッセージそのものも大事だが、それ以上に本気でそう思える環境を作り上げていくことが大事である。
まだできることは多くない。それでも理想は語ることにしている。願いもしないものは叶わないと思うからだ。
言霊があるっていうし、浮世英寿も「強く願えば叶う!」と言っていた。もちろん、願えば何でも叶うというほど単純ではない。ただ、裏返せば、願いもしないものは叶わない。
世界は自ら変えられる、と本気で思える環境を作ること。そのために、まず理想を言葉にすること。このあたりは、本書を読んで素直に残った部分だった。
本書は、自分にとって納得するための本ではなかった。自分が何に納得できないのかを見つけるための本だった。
アンラーニングしたいものは、まだはっきりとはわからない。ただ、学校や基礎や学力を大事にしている自分が、それらを不安から守るための保険として見すぎていないか。
そこは、これからも考え続けることになりそうだ。